多様性 ただし摩擦はないものとする
多様性が尊重される社会になってゆくのはほんとうに善いことだ。
肌が黒かろうが白かろうが青かろうが
同性を好きであろうが性自認が身体と違っていようが
だれがどんな服を着ようが
でもそれは無関心とはまた違うので
他の人の肌の色とかセクシャリティとか嗜好が「どうでもよい」のではなく、「どうあってもよい」のだということを覚えておきたい
そうでなければとてもさびしい
ちいさな1人か2人用の小部屋に閉じこもる人々の群れになってしまう
一方で
ブレイディみかこさんの「多様性はややこしい」を思い出す
そこらじゅうにだれかの「地雷」がある
(人を怒らせたり傷つけるようなものに「地雷」という比喩を用いるべきでないという意見もツイッターで見かけたことがあって、それは「ランチ難民」「ファンデ難民」のようにカジュアルに「難民」を使うことに対する抵抗と似たところなのかもしれないが、ともかく)
われわれはその線引きに苦心しているように思う
「安全地帯」などこの土の上にあるのだろうか
白人がヒスパニックを主人公とした小説を書くのは文化の盗用なのか?
シスジェンダーの俳優がトランスジェンダーの役を演じることは?
アフリカ系米国人の詩人の作品を白人が朗読することは?
わからない、正直なところそれは過度な制限なのではと考えているふしがある
一体どこで線を引くのだろう?
ただ当事者でない自分が「それは過剰反応だ」「逆差別だ」とは言えないと思っている
パワーバランスの不均衡を無視してはいけないのだ(※ただし摩擦はないものとする、みたいに)
いわゆる強者に対する弱者、マジョリティに対するマイノリティ、抑圧の歴史
われわれがうねうねとのたくる世界は物理の試験問題のようにさっぱりとはしていない
途方にくれるような多様性
それでも捨てられないし捨てたくない多様性