アル中予備軍
酒飲まないと泣けないような人間です
クソヤローです
人をなぐらないぶんすこしマシなだけだ
自己分析の練習
おしゃれきらきら チームミーハーではまったくなく
とはいえオタクにもなりきれず
「余暇はもうこればっかです!」という趣味があるでもない
仕事にはともかく力いっぱい取り組むが、バリキャリというのでもない
組織をマネジメントしたいという気持ちもない
野心はあまりないほうだ
でも貧乏性なのでこれやってみろと言われればとりあえずやろうとしてしまう
そんな流れで海外駐在もしてしまう
野心ではなく、認められたい必要とされたい期待に応えたいという欲求がめちゃくちゃ強い気がする
だからあんたのやりたい事はなんですかと言われると途方にくれる
そんなことは聞いてくれるな、と思う
しいて言うなら畳の上で寝ころがり本を読んだりまんがを読んだり映画をみたりしていたいです ときどき旅行にも行きたいです
うまいものを食いたいしいい酒も飲みたい
違うベクトルの話をするなら世界が平和であってほしいしできるだけ多くの人がおだやかに過ごせる場所であればよいと思っています
あ、そっか
きれいごとと片付けてふたをしてきたことが結構あるな
金をかせぐことと世界をすこしばかりよくすることは両立しうるのかもしれないな
せきをしても個人
個人を尊重する時代にわれわれを結びつけるものはなんであろ
地縁や血縁の窮屈さ、いわれのない抑圧は少しずつほどけてきて、それは実にたくさんのひとびとを解放し幸福をもたらしうる潮流である
そして個人が個人としておのおのの幸福を追求するとき、となりの人々とわたしはどのように関係してゆくのか?たとえば異なるイデオロギーの人々と、とてつもない金持ちととてつもない貧乏人と?
そんなものは必要ないのかしら?ほんとうに?
てんでばらばらにかつ消えかつ結びて流れ流れてゆけばよいのだろうか?
地縁や血縁が薄れて、仕事だって家で1人でできる人が増えて、会社の飲み会などもってのほかで
かわりに人はどうやって結ばれるのだろう
もう全然結ばれなくていいのか?
でもゆるくこの辺の枠の人、とかカテゴライズされると安心しませんか?それがエスカレートすると偏見になり排他主義になるのだろうか
となるともうそういう枠組みは必要とされないのだろうか
だから失われていっているのか
もっとこまかいシナプスみたいになるのか
あああよくわからなくなってきた
そもそもこれは私のただのノスタルジーなのか
田舎の秋祭りが好きだ
氏子連中がかつぐ御輿と子供のうたう声と太鼓の音
夏の浴衣の盆踊り
ひなびた広場で遊んでいると区長のおじいさんが通りかかって、若いころブラジルへ行った話をしてくれる
「石けん買いに行くときは前もって辞書で「石けん」の単語を調べて手に書いていくんや、ポルトガル語なんかぜんぜん勉強せんと行ったさけ」
多様性 ただし摩擦はないものとする
多様性が尊重される社会になってゆくのはほんとうに善いことだ。
肌が黒かろうが白かろうが青かろうが
同性を好きであろうが性自認が身体と違っていようが
だれがどんな服を着ようが
でもそれは無関心とはまた違うので
他の人の肌の色とかセクシャリティとか嗜好が「どうでもよい」のではなく、「どうあってもよい」のだということを覚えておきたい
そうでなければとてもさびしい
ちいさな1人か2人用の小部屋に閉じこもる人々の群れになってしまう
一方で
ブレイディみかこさんの「多様性はややこしい」を思い出す
そこらじゅうにだれかの「地雷」がある
(人を怒らせたり傷つけるようなものに「地雷」という比喩を用いるべきでないという意見もツイッターで見かけたことがあって、それは「ランチ難民」「ファンデ難民」のようにカジュアルに「難民」を使うことに対する抵抗と似たところなのかもしれないが、ともかく)
われわれはその線引きに苦心しているように思う
「安全地帯」などこの土の上にあるのだろうか
白人がヒスパニックを主人公とした小説を書くのは文化の盗用なのか?
シスジェンダーの俳優がトランスジェンダーの役を演じることは?
アフリカ系米国人の詩人の作品を白人が朗読することは?
わからない、正直なところそれは過度な制限なのではと考えているふしがある
一体どこで線を引くのだろう?
ただ当事者でない自分が「それは過剰反応だ」「逆差別だ」とは言えないと思っている
パワーバランスの不均衡を無視してはいけないのだ(※ただし摩擦はないものとする、みたいに)
いわゆる強者に対する弱者、マジョリティに対するマイノリティ、抑圧の歴史
われわれがうねうねとのたくる世界は物理の試験問題のようにさっぱりとはしていない
途方にくれるような多様性
それでも捨てられないし捨てたくない多様性